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猫は右目で蜘蛛の巣を見ていた。梨の低木の、選りに選ったような細い枝に縦糸を張り、横糸をかがった上にくまなく水しぶきを被っている。午前に降った粉糠雨の名残である。巣には糸が一本垂れている。その先に小さな蟷螂がぶら下がっている。風とも呼べぬ弱い空気の震えに、蜘蛛の巣と猫のひげとは確かにゆらぐ。両者はしかも不動である。ところが蟷螂が身じろいだ。幾重もの糸に巻かれ、三角な頭を、どうか、こうか捻るたびに、いよいよ動きが狭められていくばかりである。これを吊り下げている糸は、しかし恐らく蜘蛛がこれを伝うことすら許さぬほどに細っている。蜘蛛にも乾坤にも蟷螂を渡さぬ腹であるらしい。蜘蛛の巣は水滴の一粒足りとも余さず捕らえている。蜘蛛すらも囚われている。
猫は左目で蟻を見ていた。巣穴から遠からぬ土の上に、蝉が仰向けに寝ッ転がり、空を掻いている。蟻は今、蝶の翅を運んでいる。行列に絞りで染めた帆船の如く曳かれる様は、ひうとも鳴らぬ微風にさえぐらりと覚束無い。翅は粉をふき、根元に肉が付いている。その肉は蟻が時々噛んでしまう。巣穴に付くと蟻達は帆の周りをぼりぼり齧り、通路の闇に消えてしまった。時に、蝉がびいいと鳴いた。宙に泳ぐ手と言わず目と言わず蟻に食ッ付かれ、烈しく震えてびいと叫ぶ。蟻はこれの腹を破り、すうと風を通してしまう。
猫は右目で身悶えする蟷螂を、左目で震える蝉を見ていた。どちらもきっと死んでしまうが、それを別にしても、かれらに纏いつくものが、猫にとってのかれらの価値をおおいに幻滅させているのである。